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料理とは、皿の上でデザインすること——芸術を愛する受験生から本場イタリアでの料理人生活へと舵をきり、たどりついた港[Porto]で、「新しいイタリア料理」という表現を続けてきた片岡護さん。テーブルの上に素敵な時間を描き出すために導き出したのは、シンプルに「人生を楽しむ」ということだった。
取材・文/秋山健一郎 写真/羽渕みどり
僕は、20歳からの5年間をイタリアで料理人として生活し、その後日本のレストランのコックになりました。でも、日本でイタリアの料理をそのまま真似してつくろうとは思わなかった。イタリアで学んだ本場の味に、自分の色を織り交ぜたいと思ったんです。日本人としての自分の色を加えることによって、イタリア料理がもっと魅力的なものになると考えたんですよ。
そこで好都合だったのが「小皿」。当時、フランス料理においては彩りや盛りつけを重視する「ヌーベルキュイジーヌ」というムーブメントが起きていて、世界の料理に影響を与えていました。イタリア料理も豪快な調理と大皿へのダイナミックな盛りつけが当然だったのが、その頃より「バラエティに富んだメニューを少しずつたくさん食べたい」「フレンチや和懐石のように、見た目の美しさも楽しみたい」という声にも応える繊細な料理を、小皿で出していくスタイルが生まれはじめていたのです。
僕は、イタリアでそんなメニューに出合ったとき、日本でやるならこのスタイルだと直感しました。おおらかな昔ながらのイタリア料理も愛すべきものですが、細やかな工夫を好む日本人の個性を表現するのに小皿はぴったりでした。僕なりのイタリア料理を創造するにはこれしかないだろうと。それに、一度の食事でたくさんのメニューと出合えるこの形なら、与えられる感動の数や種類も多彩になる。共にテーブルを囲む人とそんな感動を共有してもらえれば、食という時間はもっと素敵なものになるはずだとも思いました。
帰国して最初に勤めた代官山の洋食レストラン「小川軒」。そして2年後に料理長に就任した南麻布のイタリアンレストラン「マリーエ」。そのどちらでも機会を得るたびに小皿料理を考案しました。これが幸いにも大好評。イタリアで学んだ大好きなメニューに僕の色を足し、日本に根付く新しいイタリア料理が創り出せた。ヘッドハンティングのオファーもありました。他の人と違って、修行と呼べる期間が十分あったとはいえない自分にとって、お店を流行らせることができた事実や周囲からの評価は、大きな自信になりましたね。
僕とイタリア料理を結びつけたのは、外交官の金倉英一さんです。僕からするとちょうど父親ぐらいの世代にあたる金倉さんは、学生時代にドイツに留学し、外交官としてもたくさんの国々に駐在した経験がある方。そのお宅に僕の母が家政婦として勤めていたんです。
金倉さんは料理が好きで、駐在した国々で食べたものを日本でつくることができないか考えておられた。当時は、今のように向こうの食材が簡単に手に入る時代ではありません。でも、国内で入手できる食材を使って現地の味を再現できないかといろいろと挑戦していたんです。かわいがってもらっていた僕は、中学生ぐらいの頃からお宅へお邪魔するようになっていたのですが、その料理の様子を見せてもらっていました。「紀ノ国屋」への買い物についていったり、もちろんご賞味にもあずかっていました。金倉さんは特にイタリア料理をつくることが多かったです。パルメザンチーズを何で代用するか、向こうのホールトマトの味をどうやって出すか、そんな工夫を繰り返していました。「カルボナーラ」なんかもつくってもらいましたが、初めて食べたときはあまりにおいしくて驚きました。お箸で口に運びながら、なんだこの食べ物は! って。そんな金倉さんご一家との楽しい時間は、僕の現在のルーツ。思い出深いものです。
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